ミシシッピ文化訪問記

雨が多い今日この頃

思ったよりも雨が多い7月です。

天気予報では、来週7月18日から24日の週も曇りや雨が多い1週間となるそうです。

雨が多くとも、稲は元気に育っているようです。

田植えから半月弱経って稲も大きくなってきました。

マウント・カホキア

さてさて、ニュースチェックをしていると、目に留まった記事。

「アメリカに1000年前の大都市 突如、衰退どうして?」という記事に、アメリカ農業留学時代に訪れた史跡の紹介が載っていました。

               アメリカに1000年前の大都市 突如、衰退どうして?

米イリノイ州、ミシシッピ川の東に、先住民が築いた大都市の遺跡がある。カホキアだ。西暦1000年から1200年代の最盛期には、この都市は面積約16平方キロメートルに達し、住民たちは墳墓や公共建造物、さらには「ウッドヘンジ」と呼ばれる天文観測所を建設した。

なかでも大きな存在感を放っていたのは、メキシコ以北最大の土塁であるモンクス・マウンドだ。複数の段からなるこの墳丘は、約30メートルもの高さにそびえていた。

カホキアの墳丘群は、その昔、メキシコの砂漠と北極圏に挟まれた地域において最大規模をほこった「ミシシッピ文化」の核となる遺跡だ。農業文明であるミシシッピ文化は、西暦800年ごろから最盛期の13世紀頃にかけて今の米国中西部と南東部に広がった。アメリカ先住民の最も優れた業績の一つとも言われるカホキアには、この文化の痕跡が目に見える形で残されている。

引用元:日経スタイル アメリカに1000年前の大都市 突如、衰退どうして?

地元のイリノイ州でもそこまで知名度のないという史跡でした。が、見に行くと迫力にビックリした思い出があります。

コチラが世界遺産のCahokia mountを訪ねた時の写真です。

公式ページに空撮まで含めた動画がありました。

コチラがChahokia mount の公式動画です。

旅行したつもりで見てみると面白いですよー

壮観なのは付近の大平原。グレートプレーンズ(Great Plains)

見渡す限りの平原にそびえる墳丘は、とても迫力いっぱいでした。

ミシシッピ文化

ミシシッピ文化とは何か?

マイナーな存在ですので、以下記事より引用します。

カホキアが見捨てられてきた理由

現在、カホキアは、イリノイ州の史跡、国の歴史的建造物、ユネスコの世界遺産に指定されている。しかし、近年までは地元の人たちしか知らない遺跡だった。その背景には深い事情がある。
 カホキア墳丘について初めて詳細な記述を残したのは、ヘンリー・M・ブラッケンリッジだった。弁護士でアマチュア歴史家だったブラッケンリッジは、1811年、周辺の草原を探索している最中に偶然、この遺跡と巨大な中央墳丘を見つけた。「非常に驚かされた。まるでエジプトのピラミッドを眺めているような気分だった」と書き残している。友人にこうした著名人がいたことで、カホキアの存在はようやく知られるようになっていったものの、その後もさして注目を集めることはなかった。
1830年にアンドリュー・ジャクソン大統領が制定したインディアン強制移住法は、東部の先住民をミシシッピ以西の土地に移住させることを命じたもので、その前提には、アメリカ先住民は「野蛮人」であるという白人至上主義的な考え方があった。
かつて栄えた大都市があったという証拠は、こうした考えにとって都合が悪かった。アメリカ先住民の技術や尽力を認めたくなかったのだ。
米国の大学でさえ、カホキアをはじめとする国内の遺跡にはほとんど目を向けなかった。

ただの巨大な土の山ではなかった

カホキアは、ただの巨大な土の山ではなかった。考古学者たちがどこを掘っても、そこから家が見つかった。これは、何千人もの人々がかつてここでコミュニティーを形成していたことを示していた。そしてその家の多くは、非常に短い期間内に建てられたものだった。
調査により、どうやら1050年前後に、この都市全体が一気に活気づいたことがわかってきた。周辺地域から人々が続々と集まり、家を建て、新しい都市のインフラを整えていった。その中には、上部に建物が設置された墳丘のほか、サッカー場45面分ほどの広さを持つ巨大な広場もあり、スポーツや宗教行事に使われていた。
巨大なモンクス・マウンドの上から眺めれば、目の前には広大な氾濫原が広がっていた。周辺で最も高かったであろう墳丘の建設を指揮した後、部族の長あるいは高位の僧侶は、自らが統治する土地を鳥の視点から見渡すことができただろう。

ミシシッピ文化、謎の衰退 

 【ミシシッピ文化】
 この場所が当時何と呼ばれていたのかも、ここに住んでいた人たちが自らを何と呼んでいたのかもわかっていない。「カホキア」というのは、1600年代にこの周辺に住んでいた部族の名前を借りたものだ。この土地の人々は書き言葉を持っておらず、彼らを知る手がかりは少なく、その解釈にはさまざまな議論がある。
専門家の間で意見が一致しているのは、トウモロコシが地域の食生活を支えるようになってから2世紀ほどで急速にこの都市が発展したこと、氾濫原に人々が引き寄せられてきたこと、そして、ミシシッピ文化のほかのコミュニティーと比べて規模と範囲がとてつもなく大きかったことなどが挙げられる。カホキアの墳丘とそこに住んでいた人々の築いた文化は、今日ではミシシッピ文化と呼ばれている。カホキアの遺跡は現在までに発見された中で最大の集落だが、考古学者たちはこのほかにも、米国南東部から中西部、さらには北の五大湖地域でもミシシッピ文化の集落跡を発見している。カホキアと同様、その多くは、巨大な土塁、木製の柵や要塞、銅、貝、石で作られた遺物などを特徴としている。
ミシシッピ文化の始まりを特定するのは難しいが、多くの専門家は西暦800年前後と考えている。そのころ、ミシシッピ川渓谷中央部に村が形成され始め、農民たちはトウモロコシ(これが主食となっていく)、豆、カボチャなどを栽培した。同じような集落は、その他の河川流域にも現れた。こうした北米の肥沃な土地で、ミシシッピ文化の人々は、温暖な気候、豊富な水、さらには木材、木の実、魚、野生動物といった豊富な天然資源を享受していた。

 【謎の衰退】
 最盛期には1万5000人がカホキアに住んでいたとされるが、1400年にはすでに閑散としていた。カホキアの消滅は、おそらくはその出現よりもさらに大きな謎と言えるだろう。周辺のかなりの部分からも住人がいなくなったことから、この時期の一帯は「Vacant Quarter(無人の地)」と呼ばれている。

歴史家によると、カホキアの都市は気候がとりわけ良好な時期に繁栄を極め、縮小が始まったのは、気候が以前よりも寒冷で乾燥し、予測がしづらくなったころだという。定期的な作物の収穫に頼っていた農業コミュニティーにとって、こうした状況の変化は単なるストレスにとどまらず、壊滅的な影響を与えた可能性もある。

以上、引用元:日経スタイル アメリカに1000年前の大都市 突如、衰退どうして?

まとめ

久しぶりにmixiを開いた日に、何気なく目にしたミシシッピ文化の記事。

これも何かの縁と思いブログにまとめてみました。

アメリカの農場時代を懐かしく思ったヒロアキでした。