来年の大河ドラマ渋沢栄一なんですね。へーと思いきや何をした人か知らなかったΣ(゚Д゚)

ので、

今日はwebでわかる限り調べた渋沢栄一についてです!パチパチパチパチ\(◎o◎)/!

渋沢栄一とは

渋沢栄一、皆さん知ってますか?教科書で「日本の資本主義の父」と紹介されていることで有名な人としか覚えていなかった古閑弘晃です。とりあえず、wikipedia ,渋沢栄一記念財団の略歴を見ましたが、はっきり言って意味が解らない(;一_一)

渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれました。

家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問 の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。

「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取りの計画を立てましたが中止し、京都へ向かいます。

郷里を離れた栄一は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。

栄一は27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。

渋沢栄一略歴

まずは20代までの略歴。

時は藩閥政治真っただ中の明治維新直後。よく知らんけど鹿児島か山口の人だろうと思いきや出身は現在の埼玉県深谷市。それも村の有力な農家とはいえ農家の子供がなぜに徳川慶喜の側近になっているのか?そもそも京都には尊王攘夷をしに出てきたのでは?謎が深まるばかりです。

明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。
1873(明治6)年に大蔵省を辞した後、栄一は一民間経済人として活動しました。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。
栄一は第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。
栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931(昭和6)年11月11日、91歳の生涯を閉じました。

渋沢栄一略歴

いわゆる資本主義の父といわれる部分ですね。

Wikipediaによるとみずほ銀行、東京瓦斯、東京海上日動火災保険、王子製紙、日本製紙、東急、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡、大日本製糖、などなど500以上の企業、一橋大学などの大学などまさしく「日本資本主義の父」の称号も納得の活躍ですね。

実績だけを見ても渋沢栄一のスケールの大きさが伺えますね。結びに変えて来年の大河の「企画意図」と「物語」を引用して本日のブログは終わりにします。早くも来年の大河ドラマが楽しみになってきましたよ

٩( ”ω” )و

企画意図 NHK大河ドラマ 青天を衝(つ)けより

渋沢栄一の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。
意外に知られていませんが、実はやることなすこと裏目に出てばかり。
波乱万丈です。田舎の農民に生まれ、倒幕の志士を目指したのにまるで正反対の幕臣に。
すると幕府がつぶれて失業武士に。さらには意に反して明治新政府に仕官することとなり、いざ政治の世界で大暴れしたあと、33歳でようやく辞表を出して民間人へと転身!
ここから実業家として、怒濤どとうの民間改革が始まります。銀行、保険、製紙、紡績、鉄道、海運、ガス、電気……、世の中に必要なものを次々と生み出し、近代日本の礎を築きました。
一貫性のない生き方のように見えて、その道は、幼きころより学び続けた「論語」の精神に貫かれていました。信念のため、たとえ形を変えてでも逆境を乗り越え、確かなものを築いた生きざまは実にエネルギッシュです。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=20240
物語 NHK大河ドラマ 青天を衝(つ)けより

官尊民卑かんそんみんぴなんて、くそくらえ。百姓からの脱却を決意!

栄一は、藍染めの原料となる藍玉づくりと養蚕を営む百姓の家に生まれた。頭の回転は早いが、大人や権力にものおじしないやんちゃ坊主に育つ。商才に長たけた父・市郎右衛門の背中に学び、栄一は商売のおもしろさに目覚めていった。
しかし17歳のころ、人生を変える最初の事件が起こる。御用金を取り立てる代官に刃向かい、理不尽に罵倒されたのだ。栄一は、官尊民卑がはびこる幕府の身分制度に怒りを覚え、決意する。「虐げられる百姓のままでは終われない。武士になる!」。

目指せ、攘夷の志士! ところが計画中止、追われる身へ……。

栄一は、従兄いとこの惇忠じゅんちゅうや喜作とともに、尊皇攘夷に傾倒していく。栄一らは江戸に出入りして同志を集め、ある暴挙を企てた。高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き討ちするという一大攘夷計画だ。ところが、京の情勢に通じた惇忠の弟・長七郎の猛反対にあい、実行前夜にしてあえなく断念。逆に幕府に追われる立場となり、喜作とともに京へ逃げる。
そんな彼らに助け船を出したのは、一橋慶喜の側近・平岡円四郎だ。一橋家の家臣となるか、幕府に捕らわれて死ぬか、という二者択一を迫られる。このとき、“慶喜こそが幕府を変える人物となる”と望みを懸け、一橋の人間となったことで再び運命が変わっていく──。

心ならずも幕臣に。パリ行きが人生を開く!

栄一は持ち前の商才で一橋家の財政改革に手腕を発揮し、慶喜の信頼を得る。ところが、慶喜が将軍を継承したことで、倒幕を目指すどころか幕臣になってしまった。
失意の栄一に、またとない転機が訪れる。パリ万国博覧会の随員に選ばれたのだ。産業発展めざましいフランスに渡った栄一は、「株式会社」と「バンク」の仕組みを知り、さらに官と民が平等である社会に大きな衝撃を受ける。「攘夷なんてとんでもない。民間が力を発揮する西洋の国づくりを日本も吸収すべきだ!」。
そんな折、日本から大政奉還の知らせが届き、無念の帰国へ……。

まさかの新政府入りで、続々改革。33歳でいよいよ民間へ。

帰国後、様変わりした日本に衝撃を受ける栄一。約260年続いていた徳川の時代はすでに終わり、惇忠や喜作は「彰義隊しょうぎたい」を結成。戊辰戦争、そして函館戦争と新政府軍との戦闘を続けていた。
栄一は、静岡で隠棲いんせいする慶喜と再会し、身をやつした姿に涙する。そして、民間に身を置きながら、慶喜をそばで支えることを決意した。
しかし突然、明治新政府から大蔵省への仕官を命じられて上京。「改正掛かいせいがかり」を立ち上げ、租税・鉄道・貨幣制度など次々と改革を推し進めること3年半。栄一はある決意を胸に辞表を提出した。
このとき、33歳。いよいよ、栄一の目指す民間改革が始まるのだった……!

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=20240

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